1. はじめに:なぜ今「個人ばく露測定」が注目されているのか?
近年、製造業や建設業をはじめとする多くの現場で「個人ばく露測定」という言葉を耳にする機会が増えています。その背景にあるのは、化学物質による労働災害を防ぐための国の規制の大きな転換です。
これまで日本の化学物質管理は、国が特定の有害物質に対して細かく基準を定める「個別規制型」が中心でした。しかし、国内で使用される数万種類の化学物質のうち、規制対象となっているのはごく一部に過ぎず、規制外の物質による健康被害が後を絶ちません。そこで国は、企業自らが使用する化学物質のリスクを把握し、適切に管理する「自律的管理」への移行を進めています。
その一環として、2025年5月に「労働安全衛生法及び作業環境測定法の一部を改正する法律」が成立し、2026年10月より「個人ばく露測定」に関する新たな義務が課されることになりました。本コラムでは、この個人ばく露測定の基礎知識と、企業が対応すべきポイントを分かりやすく解説します。
2. 個人ばく露測定とは?(基礎知識)
「個人ばく露測定」とは、作業者が業務中に「実際にどれくらいの化学物質を吸い込んでいるか(ばく露しているか)」を把握するための測定手法です。具体的には、作業者の襟元などに小型のサンプリング機器を装着し、作業中の空気を採取して濃度を分析します。
従来の「作業環境測定」との違い
これまで広く行われてきた「作業環境測定」と「個人ばく露測定」には、明確な違いがあります。
- 作業環境測定(空間の測定)
作業場内の特定の場所に測定機器を置き、その「空間の平均的な化学物質濃度」を測ります。部屋全体の環境状態を把握するのに適していますが、作業者が移動する場合や、特定の作業時のみ発生する高濃度のばく露を正確に捉えきれない課題がありました。 - 個人ばく露測定(個人の測定)
作業者自身に機器を装着するため、移動を伴う作業や、局所的に発生する化学物質の「実際の吸入量」を正確に把握できます。
自律的管理においては、作業者一人ひとりのリアルなリスクを評価することが求められるため、個人ばく露測定の重要性が飛躍的に高まっています。
3. 押さえておきたい法改正のポイントとスケジュール
今回の法改正において、企業が特に押さえておくべきポイントは以下の3点です。
① 2026年10月1日より「個人ばく露測定」の精度担保が義務化
2026年10月1日より、個人ばく露測定が正式に「作業環境測定」の一部として位置づけられます。これにより、特定の作業場において個人ばく露測定を行う場合、必要な講習を受講した「作業環境測定士」などの有資格者が、定められた基準に従って測定を実施することが義務付けられます。自社で適当に測るのではなく、専門家による正確な測定が求められるようになります。
② SDS(安全データシート)の交付義務拡大と罰則強化
化学物質の危険性や有害性を伝える「SDS(安全データシート)」の交付義務も強化されています。2026年4月からは、危険性・有害性が確認されたすべての化学物質(約3,000物質)にSDSの交付義務が拡大されます。さらに今回の法改正では、化学物質の譲渡・提供者による危険性・有害性情報の通知義務違反に対して、新たに罰則が設けられることになりました。
③ 「働く人すべて」の保護へ
労働安全衛生法の保護対象が拡大され、従来の「労働者」だけでなく、同じ場所で働く一人親方やフリーランスなどの「個人事業者等」に対しても、安全衛生対策を講じることが義務付けられます。
4. 企業が対応すべき具体的な3つのステップ
2026年の施行に向けて、企業は今からどのような準備を進めるべきでしょうか。具体的なアクションプランを3つのステップで紹介します。
ステップ1:化学物質の洗い出しとSDSの確認
まずは、自社の現場で使用しているすべての化学物質(塗料、洗浄剤、接着剤など)をリストアップしましょう。そして、それぞれの物質について最新のSDSを入手し、どのような危険性・有害性があるのかを正確に把握することが第一歩です。
ステップ2:リスクアセスメントの実施と体制づくり
SDSの情報をもとに、その化学物質を「どの作業で」「誰が」「どれくらいの量」使用しているかを確認し、健康被害のリスクを見積もる「リスクアセスメント」を実施します。この推進役として、専門知識を持つ「化学物質管理者」を選任し、社内の管理体制を構築することが不可欠です。
ステップ3:測定の実施と記録の保存
リスクアセスメントの結果、労働者のばく露量が基準値を超えるおそれがある場合は、換気設備の導入や保護具の着用といった対策を講じます。その対策が本当に有効に機能しているかを確認するために「個人ばく露測定」を実施します。2026年10月以降は有資格者による測定が必要になるため、早めに外部の作業環境測定機関などに相談し、測定計画を立てておくことをお勧めします。
5. おわりに:法令遵守の先にある「働く人の健康保護」
2026年に向けた労働安全衛生法の改正は、企業にとって対応すべき事項が多く、負担に感じるかもしれません。しかし、個人ばく露測定をはじめとする化学物質の自律的管理は、単なる「書類上の義務」や「ペナルティ回避」のためのものではありません。
現場で働く従業員や協力会社の人々が、将来にわたって健康を損なうことなく、安心して働き続けられる環境をつくるための本質的な取り組みです。法改正のスケジュールを正しく理解し、専門家の力も借りながら、早めの準備と対策を進めていきましょう。